浮気をしました。






 急にぐるぐると視線が変わっていく。
 先輩はあたしの手を強く引いて、家の中にあたしを入れさせた。無理やり押し込んだのだ。 がんっと鈍い音を立ててあたしは床に打ちつけられる。がうん、と脳が揺れる感覚がする。 顔を上げると先輩があたしを見下ろしている。

「先輩……先輩?」
 声はかすれて、たぶんあたしの言葉は先輩の耳に届いてなかったと思う。 自分でも涙目になっているのが分かった。ひりひりとした痛みが腰を襲う。立てない、起き上がれない……っ! あたしは、倒れたまま肘をつかって後ずさっていた。なんでかは分からない。 だけど、先輩の冷え切った視線が怖くて、脳より体が先に動いていて。先輩が近づいて来る。ゆっくり、だけど確実に。

 ――先輩。先輩、先輩じゃないよ……!
 先輩はあたしの肩を両手で抑える。力のこもった両手に、あたしは情けない声しか出なかった。
「ひっ……」

 やめて。そう言おうとした時だった。


 先輩の香り。


 それは、あたしがとても望んでいた、キス。気が緩んだ。先輩を抑えてた手の動きがとっさに止まった。
きっとそれは、先輩とキスしたこと自体を、否定したくなかったから。嬉しかったから。

 少しだけ――……あたしの、行き場の無くした手を先輩はゆっくり握る。 ああ駄目。また。こんなにも、溺れていってしまってる――……

 胸がきゅって狭くなる。先輩。先輩、あたし、いつも先輩のことだけ、考えているの。 あなたも同じぐらいあたしのことだけ考えててくれたら嬉しい。
だけどきっとそれは叶わないから少しだけ考えてくれたらそれで十分。
 ……だから、このキスに愛なんか求めていないよ。



 少しして、ゆっくりと先輩が離れていく。絡んでいた両手と一緒に。目が合う。
 先輩は無表情のままあたしを見つめる。なにを考えているのか分からない目だ。

 なにをどうすればいいのだろうか。なにか話せばいいのだろうか。 そんな抑え切れない胸騒ぎでいっぱいだった。それでもやっぱりなにも出来なくて、あたしはうつむく。 沈黙の嫌な空気が2人の間にまとわりついていた。速いリズムで動く心臓を、あたしは止められない。
 しばらくしてあたしは顔を上げて、先輩の顔色を見た。すると、先輩の表情は変わっていた。


「……はは、……ははははは、っははは!」

 乾ききった笑いが先輩の口からこぼれてゆく。ねえ、どうしたんですか。胸が痛くなる。
 無力なあたしは、名前を呼ぶことしか出来ない。 これで、少しでも先輩の"言葉に出せない思い"を取り除くことができたらいいのに。

「せん、ぱい……?」
「うっさいなあさっきから何回も先輩先輩ってさ」

 急に先輩は笑うのをやめた。顔は笑っているのに、視線が冷たくて。 その視線に、背中がすうっと冷えていく。それは、あたしに踏み込んではいけないものがある事ことを伝えていた。
吐き捨てるように先輩はいう。



「……さくらのことは凄く好きだよ。きっと世界一好きだよ。……でもさ。
さくらは彼女じゃないんだからさ。抱き合うだけじゃ駄目なの? キスだけじゃ物足りないの?」



 分かっていた。
 だけど、その事実をあなたにこうもはっきりと突きつけられると、困ってしまう。 あたしは苦笑いするしかなかった。胸がずきずきと痛み始める。分かっていたのに。


「それ以上僕の中に入ってこようとするのやめてよ。
……僕らの関係は外見だけにしてくれないかな。分かるよね? 僕の言ってる意味」




こっちをいてほしいって、




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