浮気をしました。




「大丈夫だよ、知佳。俺は、知佳だけが好き」
 先輩が麻川さんの頭を優しく撫で横髪を耳にかけ、耳元で囁く。麻川さんは安心した様子で、ゆっくり瞬きをした。

「なあ、分かって? 不安にさせたならごめん、だけど俺は、浮気なんかしてないから。だから、信じて?」

 先輩の1つ1つの言葉がずき、ずき、と痛く胸に刺さっていく。鼻がつうんと痛くなる。
なんであたしこんなに、涙腺弱くなっちゃったんだろう……。 涙がぼろぼろと溢れ出す。なんで泣いてるのか、自分でも分からない。だけど、寂しかった。
 "浮気なんかしてないから"そう言うことなんて分かっていたでしょ?  こんな自分に腹が立って、拳に力を入れる。長い爪が皮膚に食い込んだ。

「うん……」
 麻川さんの甘い声。見たくないのに、聞きたくないのに。 ……先輩、あなたはほんとうに意地悪だ。見てしまうよ、聞いてしまうよ。

「知佳、目、瞑って」また麻川さんのうん、と言う声が聞こえた。
 狭いクローゼットの中であたしは涙を拭う。なに、泣いてんの。 先輩がそう言ってあたしの涙を優しく拭ってくれる瞬間。凄く幸せな瞬間だった。 でももう、ないんだ。そう思うとまた胸が痛くなって、でもあたしは必死に涙をこらえた。

 "目、瞑って"その言葉は麻川さんにも、あたしにも向けられた言葉なんじゃないかってそんな気がしてたまらなくて。 これからすることを見たら、きっとあたしが泣くだろうと思って先輩は気を遣って言ったんじゃないかって。……そんなわけ、ないのに。


「心配するな、もう……」


 先輩は麻川さんと向かい合って、その言葉を発すると、唇を重ねた。
 あたしからは、はっきりと2人の横顔が見える。いやだ。見たくない。

 ――駄目。目をそむけちゃ。見なくちゃいけない。だってあたしは、 だってあたしは、麻川さんを傷付けた。だってあたしは、先輩を愛している。
 だから見なくちゃいけない。これまであたしのしてきたことが、今自分に返ってきているんだから。

 胸が痛い。胸が苦しい。胸が狭い。ずきずきする。こんなの、初めて。いたい、苦しい、
 ……あたしは胸に手を当てて、必死に我慢した。それでも2人のキスは、終わらなかった。見なきゃ。 知っていたんでしょ? こうなることぐらい。それだったら涙なんか流さないでも見れるでしょ? 別にいつもの事って。そう割り切れるでしょ? ねえ、泣かないでよあたし。 なんで泣くの? 知ってたじゃん。分かってたじゃん。ずっと前から、……ずっと、ずっと。

 景色が滲んでいく。先輩の顔がもう見えなかった。先輩の顔がもう見れなかった。 体中全体がそれを見るのを否定していた。涙が床にぽたぽたと落ちる。
 先輩の服をぎゅっと掴んだ。鼻をすすればバレてしまう。だから、声を出さないように、泣いた。


 ――分かっていたのに。こうなることぐらい、分かっていたのに。
 あたしは"浮気相手"で麻川さんは"彼女"。あたしは本命じゃない、ただの、遊び。 最初から分かっていたのに。それを分かった上で、先輩のことを好きでいたつもりだったのに。 けっきょくなにひとつ、あたしは分かっていなかったんだ。




分かっていことだから、




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