浮気をしました。







 あたしじゃない、誰か、女の人の声だった。綺麗な、綺麗な――あの、声。

 どくどくどくどくどくどく、あたしは胸騒ぎを止められなくて、先輩の顔を見た。
 "せんぱい、"口パクと表情で必死に伝える。確実に誰かがこっちに迫ってきている。 どくんどくんと、必死に胸が危険を知らせてきていた。

 "隠れてて、"先輩が口パクで伝えてきて、あたしはリビングのクローゼットを開け、中に隠れた。 先輩の服の中に囲まれる。先輩の良い薫に包まれる。だけど、今は穏やかな気持ちになってる場合じゃなかった。
 ごくりと生唾を飲む。先輩がどたどたと走って玄関に行くのが分かる。 クローゼットの扉の隙間からリビングの風景が見えた。止まらない胸騒ぎ。 怖い、怖い、怖い、どうしようどうしようと気持ちが焦る。きっと、あの綺麗な声は――……


「倉木さん! あたし分かってるんです! 浮気してるんでしょう! 分かってるんですよ!」
「知佳! 知佳落ち着け!」


 ――麻川さんだ。暗闇の中、あたしは荒い息遣いが麻川さんに聞こえないように必死だった。 冷や汗がだらだらと流れる。ぎゅっと目を瞑る。
 麻川さんがリビングに入ってきた。細い縦から見える世界が、怖くて怖くてたまらなかった。
 体中が震える。多分あたしの今の唇や顔色は真っ青だ。もし見つかったら? そんなことばかりが頭を過ぎる。

「ここにいるんでしょ! 分かってるのよ! ねえ誰なの!? ねえ倉木さん! やっぱり昨日の言葉は嘘だったんだ! そうでしょ! 答えてよ!」

 麻川さんは倉木さんの肩を掴んで、泣いていた。
 声が漏れないように、あたしは手を口に持ってくる。涙が目に溜まっていた。
 麻川さん、麻川さんが、怖い。いつもにっこりと笑って、"彼女は見つけたら成敗する。……なーんちゃって" 冗談っぽく、笑っていたのに。麻川さんがこんな風に泣いているのは、なんで?


「ねえどこよ!」麻川さんは凄い形相で怒鳴りつけて、こっちに近づいてきた。

「ここ!?」麻川さんはカーテンを開けて確かめていた。先輩がやめろ、と宥めているが麻川さんは止まらない。

「……ここ!?」麻川さんは隣の部屋に行き、あたしのばくばくしていた心臓が少しだけ和らぐ。


「やめろ知佳っ」

 先輩の声が聞こえる。涙が零れていた。この涙は、なに――?  体がびくん、と反応するぐらいにドキドキと胸が打っていた。目頭が熱い。 涙がぼろぼろと溢れて、荒くなった息遣いとドキドキが麻川さんに聞こえないようにあたしは目を瞑っていた。
 麻川さんがいろんなドアを開けていく音がする。早く帰って。お願い、早く帰って。あたしに気付かないで。あたしは祈っていた。

「いない……こっちね、」

 麻川さんがこっちに向かってくる音と同時に、どんどん胸が締め付けられていく。 ぎゅうっと押しつぶされるような感覚。息苦しい。呼吸しにくい。はあはあと息が漏れるのを塞ぐのでいっぱいいっぱいだ。




許されないまでのカウントダウン




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