浮気をしました。



 あたしが部活から帰る時、その人はいつもそこにいた。
 小さなベンチ。木製のそれに腰掛けて、いつも遠い目をしてどこかを見ていた。 去年(――あたしが高校2年生の時)の秋ごろから、その人は毎日毎日そこにいた。 制服を見て、すぐにあたしと同じ学校の人だということは分かった。 学年ごとに違っているネクタイの色で、あたしのひとつ上だということも。
 何度か目が合って、だけど気づかないフリをして その人の前を通り過ぎるあたしの胸には、いつしかひとつの想いが生まれていた。

"あたしの事知ってほしい"

 ずっと見ていたあたしは、高校2年の生活が終わる時には その人のクセとか瞳のいろとかいろいろ分かるようになっていた。 あたしの事も、見てくれたらいいのに。なんて、意味のない期待を抱いたりした。それが、高校2年生の終わりごろ。

 先輩たちの卒業式の前日だった。
 朝のSHRが終わったあと、あたしたち在校生は3年生のお別れ会に 行かなきゃいけないんだけれど友達とトイレに行ってる間にみんなは もうどこかに行っていて、お別れ会する場所なんて知らないあたしと友達はうろうろと迷っていた。
 しばらくして、後ろから聞こえてきた足音に振り向いたあたしの目に映った人は、 毎日ベンチに座っていた、"その人"で。

「お別れ会ってもう始まってる感じかな、」

 初めて聞いた、その人の声。
 あたしと友達は顔を見合わせて、さあ……と首を傾げるだけしか出来なかった。 今までなかなか見れなかった制服の名札には"大倉"――大倉、っていうんだ。名前。
 その人が歩きだして、あたしと友達は顔を見合わせた。そしたらその人は振り向いて

「行かないの?」

 その時、あたしは気づいた。
 自分の心臓がいつもと違う動き方をしていることを。


(これが恋する、ってことなんだ)


 その人が講堂に歩いて行くので、あたしと友達も3メートルほど後ろをついていった。 しばらくして着いて、ざわついた講堂に自然に馴染んでゆくその人の背中。 講堂に並べられたパイプ椅子に座って友達と楽しそうに喋るその人の横顔。あたしは、今でも鮮明に覚えている。 
 その話を友達の(さっきの子とは違う――ちなみに さっきの子は藤崎 栞ってゆうんだけど、)有村 莉子に言うと、莉子は眉間に皺を寄せた。

「3年の大倉って――大倉 流だよね」
 見るからに嫌そうな顔をする莉子。

「あの人性格悪いらしいよ。やめときやめとき」
「何でよー。迷ってるあたしたちに声をかけてくれたんだよ? ぜったい紳士にしか思えないよ! ほんと素敵だあ……」
「ナンパでもしようとしてたんじゃないー? あんたって素直で騙されやすいから、気をつけなよ」

 莉子はそう言ってあたしの話なんか全然聞いてくれなかったけど。 流、っていうんだ。名前が分かっただけでなんだかちょっと楽しい。
 恋ってこんなに楽しいもんなんだ。恋って素敵だ。その時のあたしは、そう思ってたんだ。   

 いつしか季節は変わり、あたしも高校3年生。大倉先輩は海都大学というところに行ったと莉子から知った。 あたしも海都行こっかなー、なんて呟いたら莉子から冷たい視線を浴びたんだけど。
 もうベンチに座っている姿は見れなかった。大学生って忙しいんだなあ。 そんな風に諦めていたけれど、いつかはまた会えるといいななんて期待していた。

「どっかで会えないかなー、うちに来てくれたらいいのになー、なんつって!」
「何言ってんだか。だいたいあんた、会ったところでうじうじするだけじゃん」
「なっ! 決めつけないでくださいー」
「じゃあ何かすんの?」

 言葉につまるあたしに、莉子はほら。と鼻で笑った。 あたしは無性に悔しくなって、爪を磨き始める莉子に言った。

「告白する!」
 莉子は爪から、ちらっと視線を上げてへえー、と興味なさそうに頷くだけ。
「信じてよ!」
「はいはいまた今度ねー」
 また爪磨きを始める莉子は、いくら叩いたってあたしの話を聞いてくれなかったんだけど。


 だけどそれは、突然だった。
 その日、いつものように部活から帰るあたしの目に飛び込んできたのは、 ベンチに腰掛ける先輩だった。久しぶりに見る先輩。 髪の毛が少しだけ伸びて、服も(そりゃもちろんなんだけど)制服じゃなくて。 緊張して、驚いて。足が言う事を聞かなくて、先輩の前で止まってしまったあたし。


"告白する!"


「久しぶり、」

 ばちりと目が合ったかと思えば、先輩はそう言って微笑んだ。
 覚えててくれたの? あたしの、こと。先輩の言葉が何度も頭の中でリピートされる。 喉がからからで何も言葉が出ない。どうしよう。どうするべきだ。どうしよう。顔が熱い。

"告白する!"
 もしこのチャンスを逃してしまえば、もう2度と会えないかもしれない。 そんなのやだ。胸が熱くなる。そんなのやだ。口を開く。もう2度と会えないなんて、そんなの、そんなの……。




「好きです!」




 いつの間にか口から出ていた言葉は、いまさらどうすることもできなくて。顔が熱い。 固まるあたしの耳に届いたのは、

「じゃあ付き合おっか」

******

 それからあたしは先輩の家に行った。
 先輩の両親は先輩が小学生の時に離婚したらしくて、今は先輩とお母さんの2人で暮らしているらしい。 だから母は今働きに行ってる、先輩はそう言うと軽く笑った。

「だからいつも一人。もう慣れたけど」
「、あ、あたしも……。両親は共働きだから、……あたしも、いつも家では1人なんです」
「じゃあ、ぼく達似た者同士だ」

 そう言うと、先輩は寂しそうに笑った。 先輩がドアを開けて、入ってとでもいうように手を腰のあたりで左右に振った。 部屋に入ると、先輩の香りがすうっとあたしの体に染み込んでくるようだった。
 その日の事はあまり覚えていない。ただ、ずっと緊張していたから 会話はろくにしてないと思う。それでも、先輩が言った"似た者同士"の言葉はいつだって忘れた事はない。   

 今思えば、あたしは馬鹿だったのだ。 突然の告白を、しかもあたしみたいに可愛くもないやつの告白を、先輩みたいなかっこいい人が OKするわけがないのだ。それでも、あの時のあたしはただ純粋に 先輩が大好きで、先輩に少しでも近づきたくて、理屈とか理由とか必要なくて――。

 付き合って2日目。部活が忙しいからデートはもう少しだけ後にしてほしいと告げると、 先輩は快く了承してくれた。7月になって、大会で敗退したあたしは部活を引退。 そして夏休み1日目の夕方、先輩の家に行き、それからあたしと先輩は平日は毎日17時まで先輩の家でデートをするようになった。
 何度も会うたびに重なるドキドキ。あなたを見ていたい、あなたと話したい、あなたの隣にいたい、 あなたに触れたい――……。そんな気持ちだけが膨らんでいった。 その時は先輩の優しい笑顔と優しい言葉の裏をあたしは知らなかった。   

 夏休みももう終わろうとしていた時。蝉がみんみんとうるさいほどに鳴いていて、 溶けてしまうんじゃないかと思うぐらいの暑さだった。


「言ってなかったっけ。ぼく、さくらのこと凄く凄く好きだけど、世界で1番愛してるけど、 ぼく、さくらの彼氏じゃないからね」


 あたしはその言葉に凍り付いていた。
 そして後日、栞ちゃんの口からある事実を聞かされた。先輩にはあたしと同い年の麻川知佳と言う彼女がいること。 優しくて可愛くて面白くて気が遣えて何でもできて気取らなくて 友達になりたいと思えるような、そんな子。 だけど先輩は優しい言葉をかけてくれる。だけど先輩はあたしを抱きしめてくれる。 あたしはその優しさに甘えるしかできないのだ――
"世界で1番愛してる"その言葉だけで、あたしは生きていけるから。




甘えるのはいこと?





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