僕が目覚めた時、もうそこには昨日散らかっていたはずの日常の姿はなかった。

 なにかがおかしい。リビングから臭う生臭い匂いが、僕の頭を根拠のない不安でいっぱいにさせた。 手足が痺れる。僕はリビングのドアの前に立っていた。ドアノブに手をかける。 でも、もう少しの力が出ない。ドアノブを回すだけなのに、僕はそれができない。

 なにかがおかしい。なにかがおかしいんだ。だって、だって、音がしないんだ。
 いつも僕が目覚めると、母がウインナーをフライパンで焼く音、妹のトーストがオーブンで焼き終わる音、 父が新聞紙をめくる音、姉がつけるワイドショーのTVの音でリビングは賑やかだった。 それが"当たり前"で、それが"日常"で、それが"普通"だったんだ。
 でも今、その音は聞こえてくる? ……こない。そんな平凡な答えが頭を過る。 そんなはずないだろ、平凡な今までの日々を思い出して僕は泣きそうになる。 ありえない予想に臆病な僕の手が震えて、ドアノブを回す勇気はなかなか出なかった。


「嘘だろ……」


 僕はドアノブを湿った手でゆっくりと回し、少しだけ開けた。 きい、と頼りない音がした。

 僕の目の前に広がっていた世界は、この世のものではなかった。
 ドラマでよく見る展開に僕は呼吸の仕方を忘れそうになる。そのまま倒れてしまえば。 そのまま倒れて眠りにつけば、現実から逃れる事ができるのだろうか。 夢へ逃げてしまえばそれで終わり。それで終わるんだ、それで。


 重なるようにリビングの真ん中で倒れている四人。
 一番上のぐちゃぐちゃに潰された顔が僕の視界に入り、僕の背中につう、と冷や汗が流れた。 黒い液体が部屋中にこびりついていて、それが血だという事を理解するのに時間はかからなかった。
 嘘だ。声が出ない。ありえない景色に"当たり前"が一瞬で覆された。
 僕はゆっくりと部屋に足を踏み入れた。汗ばむ手で、開けたドアを閉める。

 なにかがおかしい。がんがんと痛む頭を抱えて、僕は人の横に座り込む。
 そして上から二番目にあった、一番小さい……小学生ぐらいの女の子の長い髪の毛を触った。 栗色のストレートの髪の毛。白い肌には鮮やかな赤がこびりついている。 この世で一番綺麗なものだった。僕がこの世で一番愛した女性だった。

 僕は愛していた。実の妹を。


 四人が僕の家族だという事はリビングに入った時もう知っていたし それがもう永遠に動かない体だという事も、嘘じゃない事もリビングに入る前から知っていた。 全ては僕だけが知っている事だったんだ。でも否定したくて、 朝起きたら昨日の事は夢になって四人は動き出すって思っていたかったんだ。

 僕のノートを、日記を、気持ちを見てしまったお前の顔、 手を伸ばした僕をするりと交わして両親のもとへ走って階段を下りていくお前の背中、 お前に抱きつかれた母の溜息、振り向いた姉の表情、僕を睨む父の瞳、全てがどうしようもなく僕の神経を逆撫でして、 僕はただひたすらがむしゃらに、ポケットから取り出した銀色の刃を振り回した。 悲鳴、悲鳴、悲鳴。それがぴたりと止まった時には、もうどれが人間なのか分からなくなっていた。

 ただ一つ覚えていないのはお前が最後叫んだ言葉で、僕はそれが気になってしかたがない。 言葉を聞いた時、僕がその記憶を閉じ込めてしまったからだ。思い出せない。いつ思い出せるのだろうか。 もしかしたら、一生思い出せないのかもしれない。消えない傷の一番の治療は知らないフリをする事なのかもしれない。 このままなんの空気にも触れさせず封印しておく事が1番なのかもしれない。
 これが最善なのかもしれない。

 でも封印したくないんだ、この気持ちだけは。この気持ちを、お前に伝えたかっただけなんだよ。 それなのに、なんで。なんでこんな風になっちゃったんだろうな。なあ、
 僕は長い髪の毛にキスを落とした。反応はない。抵抗はない。返事はない。 苦い後味が残る。椅子の脚に背をもたれて、そのままゆっくり目を閉じる。

 こんな事、するつもりじゃなかったなんてただの言い訳になってしまうんだろうか。



 昨日まで散らかっていたはずの日常は、僕自身が僕自身のために。……お前のために、壊したんだ。



散らかっていた常に

 僕が僕のために僕自身にさようならを告げるのは、突然の事だった。

:朝夜 緋霞ちゃん相互リンク記念%へぼくてごめんなさい(´・ω・`)




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